二・二六事件で襲撃された渡邊錠太郎邸

杉並にもあった二・二六事件

226事件とは昭和11年(1936)2月26日、東京が大雪の早朝に陸軍の一部青年将校たちが政府転覆を企てて、彼らに率いられた1400名の下士官と兵が首相はじめ陸相や蔵相など政府要人の官邸や私邸を襲撃した反乱事件のことです。東京に戒厳令が布告されて29日に反乱は鎮圧されました。この事件で岡田啓介首相は難を逃れたのですが,齋藤實内相、高橋是清蔵相と渡邊錠太郎教育総監が殺害されました。
荻窪の渡邊錠太郎教育総監私邸を襲撃したのは、高橋少尉と安田少尉に率いられた兵隊30名でした。その日の午前5時頃に四ッ谷の齋藤實内相私邸で内相を殺害した反乱軍の将校と兵隊210名の一部がトラックで荻窪に移動してきたのです。渡邊邸で事件が起きたのは午前6時頃でした。

渡邊錠太郎は当時9歳だった次女の和子さんの目の前で惨殺されました。和子さんは大学卒業後に修道女となり、現在ノートルダム清心学園理事長をなさっています。和子さんは、有馬頼義著『二・二六暗殺の目撃者』の中でその模様を詳しく語っていますが、和子さん自身の著書『美しい人に』では、次のように述べています。
『自分の目の前で父の身体が機関銃でうたれて蜂の巣のようになり、やがて数人の兵に銃剣で切りつけられ息絶えた光景は、今日でもあざやかに脳裏にやきつけられています。朝のしじまを破って耳をつんざく銃声、トラックに満載されてきた兵卒の怒号,叫喚、兵を阻止する母の声はいまだに耳に残っています。ピストルを握ったまま息絶えた父の姿、そして部屋の壁といわず天井といわず飛散していた肉片は目に焼きついています。同じ部屋にいた私は、父の死の唯一人の目撃者でした。』
渡邊錠太郎邸は上荻二丁目に当時の建物が残っています。(荻窪駅から西荻窪駅方向の線路北側に沿った光明院を通り抜けて西に進み、道路を一本横切った先の左側にあります。付近の昭和初期に建てられた古い家屋が徐々に新しく建て替えられていますので、歴史に刻まれた渡邊邸は是非とも残しておきたい気がします。(平成18年掲載当時。その後、平成20年2月に建物は取り壊されました。

渡邊邸(平成18年に撮影)

渡邊邸(平成18年に撮影)

渡邉錠太郎肖像(写真提供:杉並区立郷土博物館)

渡邉錠太郎肖像(写真提供:杉並区立郷土博物館)

井伏鱒二さんのご近所も大騒動

井伏鱒二の荻窪風土記には「渡邊さんの近所にある八百屋のお上が騒ぎで目をさまし、外に出て見ると陸軍中佐が機関銃を据えつけていた。『今日は早くから演習ですね』と言うと『ばか。こら危ないぞ、退け』とその中佐が叱った。(中佐ではなくて中尉だという者がいた)」とあります。その1頁あとに『渡邊さんのうちの傍には八百屋はない。八百屋のお上が『今日は演習ですか』と言ったというのは、つくり話だろう。」と書いてありますが、この八百屋は実際にありました。現在は家並みも変わってしまいましたが、角からニ軒目で常盤さんという夫婦で子どもさんもいました。

また井伏鱒二は「騒ぎが終わり反乱兵が引揚げると、四面道の戸村外科医が応急手当をしに渡邊さんのうちへ呼ばれて行った。蜂の巣のようになってゐて、手がつけらるものではなかったといふ。」と書いています。戸村外科は杉並公会堂から環八に出る道の右側にある赤川医院の北隣でした。
荻窪風土記には、さらに「渡邊さんの元の家は四面道の古川ポンプ屋の前にあったが、教育総監になってから、本村新開地に普請して越して行った。今、元の家は電話局の寮になっている。」とあります。青梅街道の四面道で交差する環八から西南方向に斜めに入る道があります。地図で見ると、天沼からの日大通りが青梅街道を斜めに横切り本村に伸びている古い道であるのが分かります。その道を入って、すぐ右側のマンションが渡邊さんの元の家でした。唐破風造りの玄関が門の中に見えた日本家屋がマンションに変わってしまったのは、つい数年前のことです。やや高めに大谷石で土台を固めた上に生垣が続く渡邊家の前の古川ポンプ屋の主人は古川銀兵衛という方でした。ここも今はマンションになってしまい、面影など全くありません。

渡邊邸の付近には、昭和の初めに新開地として豆腐屋や肉屋などの店ができて現在も当時の二階建店舗の古い長屋が残っています。昭和20年代になってから、その一つにニコニコ堂という雑貨屋がありました。現在は店を閉じていますが、亡くなった主人は渡邊邸を襲撃した兵隊の一人だったそうです。渡邊さんの家の近くに家を持つなど思ってもいなかったと語っていました。

矢島酒店前お正月風景(平成18年) 寺田格郎撮影

矢島酒店前お正月風景(平成18年) 寺田格郎撮影

事件を記述した文献のかずかず

有馬頼義の『二・二六暗殺の目撃者』には、渡邊大将と光明院の踏切(現在は環八が線路の下を走っていますが、昔は砂利道で線路を横切っていました)の踏切番との交友が書かれています。踏切番は鉄道の職員を辞めて渡邊邸のすぐ前で瓦せんべいの商売を始めたとあります。渡邊邸の辺りは本村という字(アザ)で蕎麦の本村庵は古くからありました。有馬頼義は農林大臣にもなった元久留米藩主有馬頼寧の子息で荻窪八幡南側の邸宅に住んでいました。現在も同じところに有馬邸はあります。
二・二六事件は、陸軍内部の皇道派と統制派という二つの派の対立から皇道派の青年将校たちが政府転覆を図って起こしたクーデターでした。反乱は失敗に終わり青年将校たちは逮捕されて20名が銃殺刑になりました。

渡邊和子さんは「私は、父を殺した人に対しては、憎しみを持っておりません。けれども、直接手を下さないで、彼らを操っていた人が憎いと思います。」と著書に書いています。また、有馬頼義が緑川史郎「日本軍閥暗黒史」からの引用として『処刑された青年将校香田清貞大尉の妻富美子は、良人がああなって初めて真崎大将の人格がわかったといっている。あんな卑怯な人間は軍人ではないともいっている。』と書いているように、決起した青年将校たちの背後で真崎甚三郎ら皇道派の将軍たちが動いていたというのが通説です。渡邊錠太郎は派閥に偏らない中立の立場でしたが、真崎甚三郎が罷免された後任として教育総監になったので皇道派からは対立する統制派と見られ、それが惨殺された理由の一つとされています。事件後、真崎甚三郎は軍法会議では「犯罪者を利する罪」で禁固13年の求刑を受けたのですが、判決は証拠不十分で無罪でした。陸軍内部の派閥の争いを政治的に決着した裁判といわれています。この事件の前後から軍部が日本の政治に口を出すようになって、戦争への道を歩き出したのでした。

参考文献 
『美しい人に』 渡邊和子著 PHP研究所
『二・二六暗殺の目撃者』 有馬頼義著 恒文社
『荻窪風土記』 井伏鱒二著 新潮社
『二・二六事件全検証』 北博昭著 朝日新聞社
『二・二六事件』 須崎慎一著 吉川弘文館
『二・二六事件昭和維新の思想と行動』 高橋正衛著 中央公論社
『目撃者が語る昭和史』第四巻2・26事件 猪瀬直樹監修 人物往来社
『2・26事件』昭和を歩く-2-   東京紅団

226事件関係図書

226事件関係図書

二・二六事件と私

渡邊錠太郎邸は杉並に残る昭和史のひとこまとして記憶に留めておきたいのです。中央線の電車の窓から注意深く見ていますと、庭木に囲まれた渡邊邸が線路際の建物の間からちらりと望めます。荻窪と西荻窪の間の北側です。
私の家は渡邊邸から3ブロック北の同じ位置にあります。祖父と父が陸軍軍人で祖父(騎兵大佐で渡邊大将の一歳年下)が50歳の大正15年(1926)に退職して予備役となり、退職金で上荻窪に洋館を建てました。屋根の形が渡邊邸と似ていたので訪ねてきた人によく間違えられました。建坪50坪の大きな洋館も十数年前に取り壊してしまい、惜しいことをしました。

当時、父は陸軍砲工学校の教官で渡邊邸を襲撃した青年将校の安田少尉は生徒でした。私は4歳でしたので母や姉(和子さんと同年齢)から聞いた話では、朝食中の父は銃声を聞いて「あの音は実弾だ」と言ったそうです。父は砲科でしたので直ぐに分かったのでしょう。姉は、父が事前に知っていたのではないかと語っています。陸軍内部では青年将校の動きを察知していて首謀者とみなされる将校たちの当直翌日を警戒していたことは明らかになっていますし、渡邊邸にも憲兵が二人配置されていました。ですから父の耳にも情報が入っていたのかも知れません。
安田少尉が父の生徒であったため、父は直ちに安田家を訪問したなど子供のころに聞いたのを覚えています。父は生い立ちからの記録を書き遺しているのですが、昭和8年に私が生まれたあと昭和12年に中国に出征するまでの二・二六事件前後の記録だけがないのは何か理由があるように思えてなりません。両親の生存中に聞いておくべきでした。
 (引用はすべて原文のまま)

籃胎漆器座卓(写真提供:杉並区立郷土博物館)

籃胎漆器座卓(写真提供:杉並区立郷土博物館)

座卓の弾痕跡拡大(写真提供:杉並区立郷土博物館)

座卓の弾痕跡拡大(写真提供:杉並区立郷土博物館)

DATA

  • 取材:寺田 格郎
  • 撮影:写真提供:杉並区立郷土博物館
  • 掲載日:2006年04月24日