石井薬局

生活の安定を求めて開業

阿佐ヶ谷駅南口、パールセンター商店街の入り口近くにある「石井薬局」。大正11年に開業し現在創業90年(平成24年現在)、今やパールセンター商店街の老舗中の老舗である。店内は客足が途絶えることがなく、奥の調剤室では、薬剤師の方々がきびきびと働く姿が見える。80代後半というご高齢ながら、経営者として、また薬剤師として現在も店頭に立たれている、二代目ご主人の石井明氏にお話をうかがった。
明氏の父親の輝太(てるた)氏が阿佐谷に石井薬局を開業したのは、大正11年11月。輝太氏は、明治16年岡山で生まれ、16才で単身アメリカへ渡る。その後、中国の大連を経て帰国後、阿佐谷に土地を借り商売を始める。「高齢になって、収入が無くなるのが不安だったため商売を始めたようだ。阿佐谷を選んだのは、関東大震災のあと、東京の西が発展していると聞いていたからだろう」と明氏は推測する。開業当時は薬屋と雑貨屋を兼ね、明氏の母親が店を切り盛りした。輝太氏が薬剤師の資格がなかったため、薬の調剤は行わず、販売のみを行っていた。
昭和6年に、輝太氏の弟が明治薬専(現在の明治薬科大学)を卒業して店に加わったことで、石井薬局は調剤業務もできるようになった。当時は各家庭を回り注文をとる、いわゆる御用ききの販売形態だったため人手が必要で、昭和10年頃には従業員は10数人もいたそうだ。

二代目ご主人、石井明氏

二代目ご主人、石井明氏

戦火ですべて無くなって

明氏が輝太氏の長男として生まれたのは、大正15年。その頃の周辺の環境は、のどかという言葉が似つかわしいものだった。「すぐ近くに銭湯があり、裏の横丁には沼があり釣堀にもなっていた。近所には友だちがたくさんいてよく遊んだよ」と明氏は回想する。当時の商店街は個人商店が中心で、子どもの数も多かったのである。その頃「石井薬局」では、調剤だけでなく材料を仕入れて薬を作る製剤業務も行っており、明氏は薬作りを手伝った思い出があるという。
順調な商売を続ける「石井薬局」だったが、戦時中は大変だったという。間引き疎開※は免れ、商売を続けることはできたものの、配給制の下、商品の仕入れに一苦労。昭和19年には、空襲による火災で店舗が焼失するという不運にも見舞われる。「裏の店からの類焼だったんだが、学校から帰ったら、何もかも無くなっていてね。その後は、焼け跡にバラックを建てて生活していた」と明氏。家業を継ぐために明治薬専で学んでいた明氏だが、継ぐべき店舗が存在しない、という状況で二代目としての生活をスタートすることとなった。
※空襲による被災後の類焼を防ぐために、商店をところどころ立ち退かせ空き地にすること

昭和7年当時の地図

昭和7年当時の地図

戦前の店舗の様子。『躍進の杉並』から

戦前の店舗の様子。『躍進の杉並』から

薬局の後継者として多忙な日々

明氏が、薬剤師として家業に携わるようになった昭和20年代の前半は、まだ戦後の混乱期であり、インフラの復興も不十分な時代。商品の仕入れにかなりの労力を要したとのこと。「1週間に一度は、自転車で日本橋まで商品を仕入れに通わなければならず、大変だった。苦労の甲斐あって、商品は瞬く間に売り切れたけれどね」と、明氏は当時の苦労話を語る。
この頃からは、明氏の薬剤師の資格を生かし、一時中断していた製剤業務を復活させ、売るだけでなく作る薬局として発展していくことになる。そしてその発展を支えたものは、「薬剤師は、学校を出てもすぐに仕事ができるわけではない。勉強が必要だ。勉強しないと生き残っていくことはできない」との明氏の信念だった。業務が終わった後で勉強会を開き、従業員の薬剤師としての知識の向上に努めたという。
当時は従業員が3~4人で、明氏は業務に追われる毎日だったが、公的な活動にも積極的に関わるようになる。杉並薬剤師会の理事を務め、昭和26、7年頃から展開された医薬分業を推進する運動にも参加する。後に明氏は、杉並薬剤師会の会長を昭和60年から20年に渡って務め、会の発展に貢献することになるのだが、その活動の原点はこの時代にあったようだ。

店内

店内

品揃えと薬剤師の能力に自信あり

明氏によれば、昭和50年代には杉並に200軒以上存在していた個人の薬局が、現在は40軒くらいにまで減少しているとのこと。チェーン店が増加したこともあり、個人の薬局にとって厳しい時代である。しかし、石井薬局の従業員は、現在約15人(パート含む。うち薬剤師10人)。個人の薬局がこれだけの薬剤師を抱え、業務を続けられるのは、なぜか。
明氏は「薬の品揃えには自信がある」と語る。売れ筋ではないため量販店では売っていない昔ながらの大衆薬を置いて、顧客のニーズにきめ細やかに対応しているのだ。そうした薬を扱う薬局は少なくなり、荻窪からわざわざ買いに来る人もいるとのこと。他にも、漢方の処方箋への対応(できるのは杉並で3軒とのこと)と戦前から続く薬局製剤が石井薬局の特色だ。薬局製剤は、材料の仕入れが困難なため、できる薬局がほとんどない中、現在も5種類くらいの風邪薬を製剤しているという。老舗を存続させているのは、業務の多様さであり、それを支えているのが、明氏が「質が高い」と語る石井薬局の薬剤師の方々なのである。

老舗の財産、信用と信頼

明氏はこう語る。「信用と信頼で仕事をしている。歴史があるのはありがたい」と。接客業のため、薬剤の知識があるだけでは顧客に対応できないこともあり、そんな時に役にたつのが、長年に渡り培われてきた顧客との信頼関係であるとのこと。共通の思い出を持つ高齢の顧客とは会話がはずみ、それが世代を超えた付き合いも可能にする。まさに地元に密着した老舗の財産である。一方、そうしたつながりのない顧客に対しては、パソコンのできる従業員が中心になり、ホームページで健康情報を発信して、石井薬局の存在を広くアピールしている。

地域に貢献をモットーに
「なぜパールセンター商店街は人通りが多いの」と明氏はよく聞かれるという。「個人商店主間のコミュニケーションが活発なことが、商店街を魅力あるものにしているから。店に空きがないのが何よりありがたい」と明氏。ただ、商店会に参加しないチェーン店の増加、後継者の不在による閉店等、商店街の抱える問題は多い。若い人が店を継ぐ希望を持て、途中からの参加もしやすい商店街にするのが今後の課題という。
明氏の望みは、店を継ぐ予定の孫に、商店会の仕事も引き継いでもらうこと。「地域に貢献する姿勢のない企業は続かない」という明氏の言葉は、商店街とともに歩んできた老舗の自信と責任感を物語っている。

<石井薬局>
住  所 阿佐谷南2-6-14(JR阿佐ヶ谷駅南口 徒歩1分)
電  話 3311-1012
営業時間 月~土  9:00~19:00(日・祝祭日休業)
石井薬局関連サイト

昭和37年当時の阿佐ヶ谷駅

昭和37年当時の阿佐ヶ谷駅

DATA

  • 取材:村田 理恵
  • 掲載日:2012年06月28日