石屋

阿佐谷に招かれた草木の石屋魂

石屋の仕事は、古代の墳墓造営にはじまり、長い歴史を誇っている。近代に至り、庭石・灯籠、墓石、建材と、仕事の内容は多岐にわたり、卸、小売りに形態を移すなど、職人の世界から変貌していった。現在、杉並区内の石材店は減少傾向にはあるが、依然としてその必要性は失われていない。杉並の変貌のなかで石屋の伝統を守りつづけてきた、親方肌の苅田商店二代目、苅田敏明さんに、石屋稼業についてうかがった。

苅田さんの父、繁敷さんが、阿佐谷の大野石材店の跡を引き受けたのは昭和の始めのことだ。苅田さんの祖父瀧治さんが、1907年(明治40年)の足尾線の敷設に際し、渡良瀬渓谷で沢入御影石の採掘をはじめた方で、当時、後継ぎの繁敷さんは大野石材店に御影石を卸していた。当時、東京各地の鉄道の敷設工事に際し多量の御影石が必要とされていたからだ。
「大野石材店さんのご主人が若くして亡くなって、親戚一同集まってね。苅田さんに地代払ってもらって、どうにか後を継いでもらえないかと。最初は東京の営業所という形ではじめたんですね」
写真は当時の大野石材店のようすだ。写っている松は、近年、店の建て替えに際し移植せざるえなかったが、現在も苅田商店のシンボル。
「松は100円くらいで買ったそうです。子供も小さく生活費もいるってことで、店も松もみんなひきうけたわけです」
苅田さんが繁敷さんにつづいて群馬県勢多郡東村草木(現在、群馬県みどり市)から上京したのは1930年(昭和5年)、五歳の時だ。
「川でよく遊びましたね。善福寺川、天王橋のあたり。暗くなってから帰っては怒られたものです。・・・砂利道でね。ほこりがすごくて。子供の頃、よく水をまかされました」
店の前がちょうど西武電車(のちの都電)の阿佐ヶ谷駅。その先は荻窪線といっていたが、本数は一時間に一本の時代だった。店の前が、新宿からの終点のようなものだった。

灯籠、庭石から大谷石へ

苅田さんが仕事を始めたのは1948年(昭和23年)、戦争から復員後、24歳の時だ。すでに若い時分から家業の手伝いをしていた苅田さんにとって、配給統制後、待ちに待ったすえ店に入った三輪トラックは宝物だった。
「それまで石はリヤカーで運んでました。よくて馬車、牛車。新宿から石をひいて青梅街道成子坂を通って帰るときは、つらくてつらくて、大きく迂回して帰りましたよ」
大喜びで三輪に乗った。
「今の区役所のあたりでエンジンをとめるんです。あとは緩やかな坂で自然に走ったから。ガソリン代節約したんです・・・ところが、エンジン止めているのに動いていることがあったんですよ。なにかとおもったら後ろからGHQのジープが押してるんですね。」
苅田商店は創業当初から灯籠、庭石を中心に商売をしていた。近隣に次々と建つ住宅の中で、お金をかけて日本式の庭園をつくるケースが多かったからだ。
「お客さんのいろんな注文を聞いてね。岡崎や真壁の専門の職人がつくって。貨車で荻窪に着いて、とりにいってました」
戦後の復興期から昭和30年代にかけての杉並区の宅地化の時代、商いの中心は大谷石に移った。大谷石は火山灰からできた軟石で、火、湿気に強く低価格であったため、当時、主に塀や基礎工事の石材、質屋の蔵などの建材としてもてはやされた。
「卸から小売り、工事、なんでもやりました。そうでないと食べられない時代でしたから、職人10人くらいをかかえる大所帯だったから」
「毎朝、ふいごで、コークス焼いて、道具の手入れからはじまるんです、朝5時頃きて、もっていって、とんぼがえりで、また積んで、もっていって、夜の11時にはまた宇都宮からとどく」
数ある大谷の坑でも上質の石の産出する坑との取引ができたため、東京の販売店でも3番目の売り上げをあげることができた。当時、産地の大谷から職人が上京し、杉並区内で商売をはじめた石材店も多く、今も同業者同士のつきあいがつづいているという。

石材業にチャレンジ

鉄筋構法やコンクリートブロックが普及し、建材としての石の需要に変化があらわれ、また建設業界の構造が変化していった時期、苅田さんが数ある仕事の方向のなかで決断したのは、墓石を扱うことだった。石屋の仕事はもともと古代の墳墓の建設に由来しており、葬祭に関する仕事は普遍だろうと考えたからだ。
「墓石といっても、資力がないと大きな市場には参加もできません。地域の寺社とのつきあい、地域とのつきあいから仕事がうまれるんです、葬祭に関する仕事ですからね。まちがいがあっちゃいけない。そりゃたいへんですよ」
経営方法も考え直した。
「石屋は危険な仕事ですし、従業員も数多くの保険に入るわけですし、老後の生活もありますし。賃貸収入でちゃんと給料を払っていくという計画をたてて実行してきたわけです」。
いわば、先駆的な兼業商店の理念だが、徹底しているのは親方となった者は職人達の生活を守るという伝統的な職人の世界の考え方だ。

からだで覚えた石屋稼業

現在は、運ぶこと、積むことはもとより、加工までコンピュータと機械で行う時代だ。石工の国の認定試験さえ、機械化されているが、苅田さんは、石は担ぎ、てこで動かし、ピシャンで割って仕事を覚えた世代だ。
「仕立屋が、苅田さん、左右の肩の位置がちがいますよっていうんですよ。頚椎も曲がっちゃってて。石ひとつ、80kgちかく、担いだのです。もう腕も上がらないんですからね」
きびしい仕事に耐えてきた苅田さんが生涯で一番嬉しかったことがある。
「一生懸命捜したんですよ。石置き場が狭くなったので。そしたらちょうどいい土地があった」
「トラックの荷台と同じ高さだったのです。おかげで三輪を横附けして石の出し入れができるようになりました。昭和20年代の終わり頃かな」。青梅街道筋では一番始めにフォークリフトを入れたと自慢気な苅田さんだが、石の荷卸しと積み込みとの労苦を軽減してくれた石置き場を手に入れたことが、なによりも忘れがたい想い出だ。

次代に託す石屋の伝統

「善し悪しだね」。時代の変化に長年耐えてきた苅田さんの考え方は冷静だ。「石屋の仕事は10年、15年かかって体で覚えたもんだよ」「なんでも機械でできて便利だけど、石を見る目は実際、石を割らないとつちかわれないよ」「若い人も、サラリーマンでしょ。考え方が。昔みたいに何年も年期奉公ってわけにはいかないしね。辛抱できないだろうし、個人商店では給料も払えないよ。それじゃ」。
苦労が多かっただけに、息子さんに後を継がせようとは思っていなかった。その息子さんが長年勤めていた会社を退職し、後を継いだ。長男の敏弘さんは、苅田さんの実績に加え、つちかった営業・企画力を活かそうとしている。国内はもとより、中国の産地を回り、仕入れ先、販路の開拓に余念がない。また石を使った新商品の開発にもとりくんでいるが、「口で商売するようなもんだから、せがれとは話があわない」とそっけない。
喧嘩ばかりしているというが、営業をする場合も、実際に石を割ることからえるベーシックな石を見る目が必要だという敏弘さんの方針で一致している。若い従業員が、時間がかかっても、従来の石屋のやりかたを学んでいる。
「にくまれ口ばかりたたいていますが、目は光らせておかないとね」「後継ぎがいるだけ、ましなのかもしれませんね」。85歳を越えて、なお苅田さんの石屋根性は健在だ。
苅田さんの楽しみはお孫さんたちの成長、気掛かりは、母校の杉並第七小学校の時計台に使う石の手配だ。「義理も人情もなくなったね。そろばんばかりだ」と嘆きながらも、地元阿佐谷に寄せる想いは一層強い。

DATA

  • 最寄駅: 南阿佐ケ谷(東京メトロ丸ノ内線) 
  • 取材:井上 直
  • 撮影:NPO法人TFF
  • 掲載日:2009年11月19日
  • 情報更新日:2016年03月31日